市会議員時代と現在の行政書士の業務を通じて、1万件以上の生活保護など、生活困窮者の相談を受けてきた。
世間では生活保護受給者に対して「仕事もしないで保護で食べているずる賢い者」というイメージもあるかも知れない。しかし、「ずる賢い生活困窮者はいない」というのが、私の確信だ。
約束は守らない、折角交通費も立て替え、バスの予約もして、大阪で住めるマンションを用意しているのに、待てど暮らせど来ない。「泣いて頼んだのは誰だ!」と怒り心頭に来る。折角マンションも決まり、生活保護が開始されたその日に保護費を持って家賃も払わず消えてしまう者もいる。
このように困った人間は少なからずいることも事実だ。しかし、そんなことをしても本人にとって絶対に得ではない。しかしそのことが理解できないだけだ。1ヶ月程度の保護費をポケットに入れて逃げたところで、直ぐに生活に行き詰まるだろう。しかしそのことが分からない。
だから決してずる「賢く」はないのだ。本当に「ずる賢い」人間は、決して生活保護を受けるような境遇にはならないだろう。きっと「ずる賢く」儲けて良い暮らしをしていると思う。そういう知恵が無い人間が、派遣切りや病気、離婚等の不可抗力によって生活困窮者になってしまうのだ。
「賢く」生活保護の道を選んでも決してハッピーではない。保護費の枠内では本当に最低限の生活を賄うのが精一杯で余裕は全くないのだ。これは「賢い」人間のすることではない。
こうして生活困窮者を追いつめる「偏見」は彼らの自立を妨げ、社会的コストとして、最終的には国民全体に跳ね返ってくる。「困った人」も含めて抱きかかえる社会こそ「人間社会」と言えるのではないだろうか?