今日(昨日)の一日は東京から大阪に来る37歳の青年を大阪駅近くのバス停に迎えに行くことから始まった。
約束の朝9時に迎えに行ったのにそれらしき人物はいない。
昨夜は確かにバスに乗ったという連絡メールがあったので大阪まで来ているはずなのだが、いったいどこに消えたのか?
過去にもバス代を振り込んだのに、バスには乗らないでどこかに消えた相談者はあったので、「又そうか?」と諦めて返るついでにヨドバシカメラで遊んでいると、突然事務所のスタッフからの電話が鳴った。この人物、バス停で待っているということが上手く伝わっていなかったようで直接用意したアパート(マンション)に来たらしい。
この人物はホームレス状態で昨日岡行政書士事務所にSOSのあった人物だ。聞くと、愛知県で生まれ育ち、高校中退後はアルバイトや建設現場を転々としていたが、どこでも酷い虐めに遭い、どこも長く続かなかったようだ。
東京に行き、建設業の会社に入って順調に進むかと思ったが、以前勤務していた会社の同僚が連れ戻しに来て愛知に帰ったが、又々虐めと暴力が始まり、耐えられなくなって知人を頼って東京に戻って来たが、結局その知人には会えず、お金も一銭も無く、住むところも無く、途方に暮れていたところ、ホームレス仲間がスマホで岡行政書士事務所を見つけてくれて相談してきたのだそうだ。
会ってみると、顔が傷だらけで唇はよほど酷く殴られたかのように腫れ上がっている。それでも「仕事でミスした自分が悪い」「殴られても当然」と思い込んでいるようだ。子どもの頃から殴り殴られるのが当然の世界に生きて来たのだろう。折角通って入学した高校も、授業料が続かずにやめたらしい。
仕事も無く、直ぐに働ける状況でもないので、生活保護の申請書を提出し、紹介したマンションに入居することになった。今日から兎に角ゆっくり寝て、食べることはできるだろう。
市議、行政書士の業務を通じて、我々には想像出来ないような境遇の青年を沢山見てきた。私などは今年は67歳になる。人生もあと僅かの時間で、終末へのカウントダウンが始まっているが、彼らは30代、40代で人生のまだまだ前半ではないか。これから先、本当ならばどんな人生が出会いが待っているか分からない。どんな可能性があるか分からない。それなのに、一番残酷なことは、この先長く生きる青年に希望が無いことだ。
こうなった境遇も「自己責任」「自業自得」という人もいる。もちろんどんな境遇でも自分の努力で這い上がってきた人もいるだろう。
しかし、頑張って頑張って死ぬほど努力しないと普通に生きて行けない社会の方が異常ではないのか?
普通に努力すれば普通に仕事と収入があり、家族を持て、家を持て、やがて子どもは結婚して孫が生まれる。これは贅沢か?死ぬほど頑張らないと手に入らない幸せか?
その人の能力は様々だが、能力に応じて働けば、普通の暮らしが手に入る「富」は日本にも世界にも溢れている。足らないのでは無く「余って」いるのだ。
空家は 70 万 9,400 戸、日本で廃棄れる食品、いわゆる「食品ロス」は570万トンもあるそうだ。これを家のない人、明日食べることのできない人に配るだけで、貧困の大きな部分は解決するだろう。
生活保護を受けても、役所の指導で日雇い、非正規労働に就くが、又々雇い止め、解雇を繰り返し、結局又生活保護に戻ってくる。全国の工場に派遣され、住むのはワンルームのマンションか会社の寮。これを繰り返していく中でどんどん年を取り、年を取る度に解雇、雇い止めのリスクは高まり、最後は孤独な生活と死が待っている。一生配偶者も家族というものを持たずに自分の子を抱くことも無く、可愛い孫の顔を見ることも無く人生を終える・・・。希望のかけらもない。こんな青年が日本だけでも何人いることだろう。
単に今の生活が苦しい、住む家がない、それだけではない。それも大きな問題だが、一番の問題は「希望がない」ということだと思う。国民等しく、特にこれからの人生の長い青年が「希望が持てる社会にする」
これは社会と政治の義務ではないだろうか?